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ブログ―市史編さん草子「市史で候」最新テーマ:「ここに清瀬病院ありき」第2回「うつりかわり」

更新日:2018年04月02日

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ここに清瀬病院ありき 四十六の巻(2):「ここに清瀬病院ありき」第2回「うつりかわり」【平成30年3月24日更新】

清瀬病院の変遷を見てみましょう。

まず、名前のうつりかわりです。
前回も少し触れましたが、改めて。

「ここに清瀬病院ありき」の石碑に刻まれている通り、次のような変遷をたどりました。

      東京府立清瀬病院                  昭和6(1931)年10月20日
      日本医療団清瀬病院               昭和18(1943)年4月1日
      国立療養所清瀬病院               昭和22(1947)年4月1日
      国立療養所東京病院清瀬病棟   昭和37(1962)年1月4日
             littleflower.png
実は、途中で変ったのは、名前だけではありませんでした。

志木街道側にあった正門 清瀬病院年報第五(昭和11年)より

左の写真をごらんください。
写っているのは、清瀬病院の正門。
『清瀬病院年報 第五』(昭和11年)に掲載されているものです。


清瀬病院の正門は、当初、志木街道の側にありました。


前回の「市史で候」でも、開院時は志木街道寄りの一角から始まったことをご紹介しました。

清瀬病院病棟配置図.●.png

いまいちど、昭和31年の建物配置図をごらんください。
図中に、昭和6(1931)年の開院当時からあった主な建物を赤い丸でマークしてみました。
(図の下が北、志木街道側です)

さてさて、ご注目。
昭和31(1956)年の病棟配置図では、赤い丸のマークに近い敷地北側、志木街道沿いの門が「裏門」、マークのない、つまり後に増築された病棟の先にある南側の門が「正門」になっています。

お気づきでしたか?


清瀬病院は、開院から20年余を経て、正門・裏門「180°の転換」をしたのでした。


なぜ?
とお思いでしょう?

訳を話せばこういうことです。

清瀬病院ができて以降、周辺の雑木林を切り拓いて次々に結核療養所ができ、病院街が形成されていったのですが、
昭和14(1939)年に傷痍軍人東京療養所が現在の東京病院の場所にできて、
線路沿いから東京療養所まで*、それまでの林の中の細かった道が立派な舗装道路に変りました。

今、清瀬駅南口発の東京病院を経由していくバスが通っている、あの道です。
当時はコンクリート舗装で、馬車や輪タクが走っていたそうです。
もっとも清瀬駅に南口ができたのはずっとずっと後のことですから、馬車も輪タクも今の北口側からでしたが。

さて、病院街。
昭和31年の航空写真に当時の病院名を書き入れてみると、こんな感じです。
(緑の点線は、線路脇から東京療養所正門まで。件の「立派な舗装道路」部分。病院名はスペースの都合で一部略称記載)昭和31年病院街の療養所群
東京療養所に至るこの道沿いには、清瀬駅に近い方から、
結核予防会の「結核研究所」と臨床部があり、
都立の「清瀬小児療養所」があり、
救世軍の療養所「清瀬清心療養園」があり、
現在の労働安全衛生総合研究所の場所には日本鋼管の療養所「清瀬浴風院」があり、
東京療養所の先には上宮教会の療養所「清瀬療園」があり、・・・
・・・
といった具合に、多くの結核療養所があって、この舗装道路は、いわば病院街のメインストリートの様相を呈していました。

ところが、これらの療養所よりずっと前、いの一番にできた清瀬病院の場合、この道に面していたのは裏門だったのです。
清瀬駅方面からの来院者など、近道となる裏門からの出入は頻繁になるばかり。
清瀬病院は、昭和26(1951)年春、裏門に守衛所を設置、通用門として出入りを認めることにしました。清瀬病院全景

そして、昭和29年秋、開院23年にしてそれまでの裏門と正門を転換したのです。
新しい正門の近くに、院長室などがある「事務本館」、続いて「治療棟」、「医局棟」を建設、「正門」の姿を整えていきました。
敷地内を一巡する小径もでき、庭園化、美化もはかられて、病院は充実の時期を迎えます。
         littleflower.png

一方、結核との闘いは「大気・栄養・安静」による安静療法の時代から、薬による化学療法と高度な手術療法によって「治療」の時代へと移っていきます。

治療薬がなかった時代の安静療法には、長い長い療養期間が必要でした。
何年もの間、療養所で過ごした人も、少なからずいました。
療養所は満床で、入院できるまでに1年以上待たなくてはならなかった時代もあり、
やっと療養所に入ることができたときには症状がかなり進んでしまっていて、残念なことに亡くなった人もいました。

戦後、ストレプトマイシンやパスといった薬による化学療法が行われるようになり、また、外科手術も「胸郭成形術」(肋骨を切り取ることで肺に圧を加えて肺の中の菌を押さえこむ方法)に代わって「肺切除術」(肺の患部を切り取る方法)という高度な手術が行えるようになって、結核は不治の病ではなくなりました。
死亡者数も減少、入院期間も短期化していきました。

罹患率も低下。結核患者の数自体、減少傾向をたどり、入院患者も減少。
空床は増える。木造の療養病棟の老朽化はますます進む。
さて、どうしたものか。

清瀬病院と東京療養所は、ごく近くにあって同じ事情をかかえる千床規模の国立療養所でした。
両者は手を組み新しい時代に応じた近代設備を整えた病院となるべく、昭和37(1962)年に統合。
こうして「国立療養所 東京病院」が誕生しました。


統合後、患者は順次、現在の東京病院敷地に新しく建てられた新館病棟に移っていくのですが、しばらくは元の建物での診療が続けられていて、それぞれ「東京病院 清瀬病棟」「東京病院 東療病棟」と呼ばれていました。
病院名は「東京病院」になりましたが、病棟の名前にそれぞれ「清瀬病院」の「清瀬」、「東京療養所」を略した「東療」の名が残されたのでした。

「ここに清瀬病院ありき」の石碑や石田波郷の句碑がある場所(中央公園内)について、ときおり「東京病院」跡地と書かれているのは、この昭和37年の統合による病院名変更を受けての記述です。

さあ、「東京病院 清瀬病棟」、この後どうなったでしょうか。
そのことについては、次回改めて。
つ、づ、く。
                                                                        littleflower.png
                                                                         


航空写真:
国土地理院提供の写真(資料番号USA-M324-131)に色付け等加工

正門の写真:
『清瀬病院年報第五』(昭和11年)
国会図書館デジタルコレクションより転載(著作権保護期間終了確認)

建物配置図:
国立療養所清瀬病院『開院二十五周年記念誌』(昭和31年)より
清瀬病院全景写真:
『国立療養所東京病院 統合15周年記念誌』(昭和53年)より
建物配置図、全景写真ともに国立病院機構東京病院の許可を得て掲載


参考資料:

国立療養所清瀬病院 『開院二十五周年記念誌』(昭和31年)
『国立療養所東京病院 統合15周年記念誌』(昭和53年)
国立療養所清瀬病院同窓会『雑木林  清瀬病院の憶い出』(昭和59年)
各病院周年記念誌
ほか

*舗装道路の起点・終点については、ききとりによる。

関連する「市史で候」:
五の巻「病院街の歴史紹介シリーズ」1~3
第1回 病院街の変遷編1
第2回 病院街の変遷編2
第3回 文学編
(リンク先の記事は、第3回→第2回→第1回の順に現れます)

 

ここに清瀬病院ありき四十六の巻(1):「ここに清瀬病院ありき」第1回「ここにありき」【平成30年2月26日更新】

 
昭和31(1956)年の航空写真があります。
写っているのは、清瀬の南西部に広がる病院街一帯です。

昭和31年の病院街一帯
 いくつもの結核療養所が広がる様子が見えますが、さて、このなかで、最初にできた「清瀬病院」は、どこでしょう?

   ◇ヒント1◇ かなり大きいです。
   ◇ヒント2◇ 線路に近いです。
   ◇ヒント3◇ 「ここに清瀬病院ありき」の石碑は、その敷地の一角にあります。
   ◇ヒント4◇ 同じ年の病院建物配置図をご参考まで。

清瀬病院配置図(s31)

長い廊下でつながった病棟の脇に、炊事場、食堂、宿舎、看護宿舎、機関場、洗濯場、倉庫などが広がっていました。
(配置図では南が上です。念のため)


   ??????????

                         !!!!!!!!!!

清瀬病院ここ

「清瀬病院」の場所、正解はこちら。

さきほどの写真に、おおまかに枠取りしてみましょう。
敷地の北で志木街道と線路に接している、ここです。



bar.blueflower




清瀬で最初にできた結核療養所「府立清瀬病院」は、昭和6(1931)年10月20日開院。

志木街道寄りの敷地面積11,000坪、100床でスタートしました。

翌7年には200床、12年に400床、13年に800床、途中の増減を経て25年には930床という大療養所に発展。
写真の昭和31年、その敷地面積は32,804坪。東京ドームが2つ入る広さでした。

東京府立の病院として発足しましたが、昭和18(1943)年には国内の結核行政を総括する日本医療団に統合され、戦後昭和22(1947)年に国の管理下に移ります。
昭和31年の建物配置図のタイトルに「国立療養所清瀬病院」とあるのは、このためです。

国立療養所となったのち、昭和37(1962)年、清瀬病院は東京療養所と統合、国立療養所東京病院となります。
しばらくそれぞれの元の病棟で診療が続けられますが、昭和45(1970)年、病院機能は東京病院敷地に建てられた新館(現在の東京病院建物の一代前の建物)に一本化されました。

清瀬病院があったところには、現在、
中央公園が整備され(この公園内に「ここに清瀬病院ありき」の石碑があります)、
国立看護大学校、日本看護協会図書館ならびに看護研修学校の建物が建ち、
折々に「清瀬みつばちプロジェクト」の蜜源苗木配布が行われる「リハ学あと」つまり東京病院附属リハビリテーション学院*跡地が、災害時の緊急避難場所として残されています。

清瀬の病院街の始まり、清瀬病院という930床の療養所がどういう規模のものだったか、付近を歩いて体感する「市史散策」は、いかがですか。



「清瀬病院跡地」は、清瀬市指定文化財です。
 もとの敷地全体が「旧跡」として文化財指定されています。

写真:
国土地理院提供の写真(資料番号USA-M324-131)
に色付け等加工


建物配置図:
国立療養所清瀬病院『開院二十五周年記念誌』(昭和31年)より
国立病院機構東京病院の許可を得て掲載

参考資料:
国立療養所清瀬病院 開院二十五周年記念誌』(昭和31年)
『国立療養所東京病院 統合15周年記念誌』(昭和53年)
ほか

*「東京病院附属リハビリテーション学院」について詳しくは、
「市史で候」五の巻之四:「日本の『リハビリ』専門教育発祥の地 きよせ」
をご覧ください。
五の巻之五「『安眠ゾーン』が見てきたもの」に続いて現れます。





四十五の巻:「いざ、中世を訪ねる時空の旅へ」市史講演会第2回開催 【平成30年1月15日更新】

市史講演会第2回「中世の清瀬市域」~ この講演会は、2月4日好評のうち終了しました ~


市史講演会、今年も開催します。
今回のテーマは「中世の清瀬市域 ゆかりの人物と文書を追って」。

きよせし?いき?
きよせ しいき?
きよせ、じゃなくて?

「清瀬」という地名が生まれたのは、明治22年に、清戸下宿、下清戸、中清戸、上清戸、中里、野塩の6つの村がまとまって「清瀬村」が誕生したときのこと。

それよりはるか昔の中世には「清瀬」とは言わなかった。
知りたいのは、今の「清瀬」にあたるところが、その時代どうだったか、なんだけど…。
というわけで「清瀬市域」と表現しています。

つまり、「この辺りの中世って、どんな感じだったのだろう」 これが今年の市史講演会のテーマです。


~・~・~・~・~


ところで、「中世」って、日本史ではどの辺りの時代を指すの?

大まかに言うと、武士が台頭してきてから、戦国の世がおさまるまで。
数字の目安で言うと、12世紀の末から16世紀の終わりまで。

え? 今から400年以上も前?!

ええ。今年平成30年は、明治維新から数えて150年。
明治の前が江戸時代。家康が江戸に幕府を開いてから、江戸城が明治政府軍に明け渡されるまで265年間。
「中世」は、そのまた前を指すのですから。

そのころ、この土地はどんな様子だったのでしょう。
ゆかりの人物や文書から、その姿に迫ります。

数百年前の文書でも、残っていれば読み解くことができますが、今の清瀬市にあたる地域に関する中世の古文書は、実は多くはありません。

そこで、市域の中世を知るには、ゆかりの人物の動きを追い、全国に散在する関連文書を追う必要がある、というわけなのです。

再来年度、新たな清瀬市史の1冊目として資料編を出す古代・中世部会では、こうした調査を着々と進めています。
今回の講演会では、その成果から見えてきた中世の清瀬市域の姿が語られます。

早春の日曜日、
古文書写真が巻頭を飾る『市史研究 きよせ』第2号を手に、清瀬市域の中世を訪ねる時空の旅へ、みなさま、いざ、まいりましょうぞ。

                      ~・~・~・~・~

 
          市史講演会第2回 ~『市史研究 きよせ』を読む~
          「中世の清瀬市域  ゆかりの人物と文書を追って」

          講師 浅倉直美(清瀬市史編さん委員会 古代・中世部会長)
          日時 平成30年2月4日(日曜日)午前10時~正午
          場所 清瀬市生涯学習センター 講座室1
             (清瀬市元町1-2-11 アミュービル6階)
          定員 50名(先着順 事前申し込み不要)
          参照資料 『市史研究 きよせ』第2号*

             *『市史研究 きよせ』は、清瀬市役所1階受付、郷土博物館にて販売中。
              1冊300円。講演会当日、会場でも販売します。





 

このページに関する問い合わせ先

市史編さん室市史係
郵便番号:204-8511
住所:東京都清瀬市中里5-842 健康センター2階
電話番号(直通):042-497-1813
電話番号(代表):042-492-5111
ファクス番号:042-492-2415

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