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市史編さん草子「市史で候」 四十六の巻(2) 「ここに清瀬病院ありき」第2回「うつりかわり」

更新日:2019年04月25日

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ここに清瀬病院ありき 四十六の巻(2):「ここに清瀬病院ありき」第2回「うつりかわり」【平成30年3月24日更新】

清瀬病院の変遷を見てみましょう。

まず、名前のうつりかわりです。
前回も少し触れましたが、改めて。

「ここに清瀬病院ありき」の石碑に刻まれている通り、次のような変遷をたどりました。

      東京府立清瀬病院                  昭和6(1931)年10月20日
      日本医療団清瀬病院               昭和18(1943)年4月1日
      国立療養所清瀬病院               昭和22(1947)年4月1日
      国立療養所東京病院清瀬病棟   昭和37(1962)年1月4日
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実は、途中で変ったのは、名前だけではありませんでした。

志木街道側にあった正門 清瀬病院年報第五(昭和11年)より

左の写真をごらんください。
写っているのは、清瀬病院の正門。
『清瀬病院年報 第五』(昭和11年)に掲載されているものです。


清瀬病院の正門は、当初、志木街道の側にありました。


前回の「市史で候」でも、開院時は志木街道寄りの一角から始まったことをご紹介しました。

清瀬病院病棟配置図.●.png

いまいちど、昭和31年の建物配置図をごらんください。
図中に、昭和6(1931)年の開院当時からあった主な建物を赤い丸でマークしてみました。
(図の下が北、志木街道側です)

さてさて、ご注目。
昭和31(1956)年の病棟配置図では、赤い丸のマークに近い敷地北側、志木街道沿いの門が「裏門」、マークのない、つまり後に増築された病棟の先にある南側の門が「正門」になっています。

お気づきでしたか?


清瀬病院は、開院から20年余を経て、正門・裏門「180°の転換」をしたのでした。


なぜ?
とお思いでしょう?

訳を話せばこういうことです。

清瀬病院ができて以降、周辺の雑木林を切り拓いて次々に結核療養所ができ、病院街が形成されていったのですが、
昭和14(1939)年に傷痍軍人東京療養所が現在の東京病院の場所にできて、
線路沿いから東京療養所まで*、それまでの林の中の細かった道が立派な舗装道路に変りました。

今、清瀬駅南口発の東京病院を経由していくバスが通っている、あの道です。
当時はコンクリート舗装で、馬車や輪タクが走っていたそうです。
もっとも清瀬駅に南口ができたのはずっとずっと後のことですから、馬車も輪タクも今の北口側からでしたが。

さて、病院街。
昭和31年の航空写真に当時の病院名を書き入れてみると、こんな感じです。
(緑の点線は、線路脇から東京療養所正門まで。件の「立派な舗装道路」部分。病院名はスペースの都合で一部略称記載)昭和31年病院街の療養所群
東京療養所に至るこの道沿いには、清瀬駅に近い方から、
結核予防会の「結核研究所」と臨床部があり、
都立の「清瀬小児療養所」があり、
救世軍の療養所「清瀬清心療養園」があり、
現在の労働安全衛生総合研究所の場所には日本鋼管の療養所「清瀬浴風院」があり、
東京療養所の先には上宮教会の療養所「清瀬療園」があり、・・・
・・・
といった具合に、多くの結核療養所があって、この舗装道路は、いわば病院街のメインストリートの様相を呈していました。

ところが、これらの療養所よりずっと前、いの一番にできた清瀬病院の場合、この道に面していたのは裏門だったのです。
清瀬駅方面からの来院者など、近道となる裏門からの出入は頻繁になるばかり。
清瀬病院は、昭和26(1951)年春、裏門に守衛所を設置、通用門として出入りを認めることにしました。清瀬病院全景

そして、昭和29年秋、開院23年にしてそれまでの裏門と正門を転換したのです。
新しい正門の近くに、院長室などがある「事務本館」、続いて「治療棟」、「医局棟」を建設、「正門」の姿を整えていきました。
敷地内を一巡する小径もでき、庭園化、美化もはかられて、病院は充実の時期を迎えます。
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一方、結核との闘いは「大気・栄養・安静」による安静療法の時代から、薬による化学療法と高度な手術療法によって「治療」の時代へと移っていきます。

治療薬がなかった時代の安静療法には、長い長い療養期間が必要でした。
何年もの間、療養所で過ごした人も、少なからずいました。
療養所は満床で、入院できるまでに1年以上待たなくてはならなかった時代もあり、
やっと療養所に入ることができたときには症状がかなり進んでしまっていて、残念なことに亡くなった人もいました。

戦後、ストレプトマイシンやパスといった薬による化学療法が行われるようになり、また、外科手術も「胸郭成形術」(肋骨を切り取ることで肺に圧を加えて肺の中の菌を押さえこむ方法)に代わって「肺切除術」(肺の患部を切り取る方法)という高度な手術が行えるようになって、結核は不治の病ではなくなりました。
死亡者数も減少、入院期間も短期化していきました。

罹患率も低下。結核患者の数自体、減少傾向をたどり、入院患者も減少。
空床は増える。木造の療養病棟の老朽化はますます進む。
さて、どうしたものか。

清瀬病院と東京療養所は、ごく近くにあって同じ事情をかかえる千床規模の国立療養所でした。
両者は手を組み新しい時代に応じた近代設備を整えた病院となるべく、昭和37(1962)年に統合。
こうして「国立療養所 東京病院」が誕生しました。


統合後、患者は順次、現在の東京病院敷地に新しく建てられた新館病棟に移っていくのですが、しばらくは元の建物での診療が続けられていて、それぞれ「東京病院 清瀬病棟」「東京病院 東療病棟」と呼ばれていました。
病院名は「東京病院」になりましたが、病棟の名前にそれぞれ「清瀬病院」の「清瀬」、「東京療養所」を略した「東療」の名が残されたのでした。

「ここに清瀬病院ありき」の石碑や石田波郷の句碑がある場所(中央公園内)について、ときおり「東京病院」跡地と書かれているのは、この昭和37年の統合による病院名変更を受けての記述です。

さあ、「東京病院 清瀬病棟」、この後どうなったでしょうか。
そのことについては、次回改めて。
つ、づ、く。
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航空写真:
国土地理院提供の写真(資料番号USA-M324-131)に色付け等加工

正門の写真:
『清瀬病院年報第五』(昭和11年)
国会図書館デジタルコレクションより転載(著作権保護期間終了確認)

建物配置図:
国立療養所清瀬病院『開院二十五周年記念誌』(昭和31年)より
清瀬病院全景写真:
『国立療養所東京病院 統合15周年記念誌』(昭和53年)より
建物配置図、全景写真ともに国立病院機構東京病院の許可を得て掲載


参考資料:

国立療養所清瀬病院 『開院二十五周年記念誌』(昭和31年)
『国立療養所東京病院 統合15周年記念誌』(昭和53年)
国立療養所清瀬病院同窓会『雑木林  清瀬病院の憶い出』(昭和59年)
各病院周年記念誌
ほか

*舗装道路の起点・終点については、ききとりによる。




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