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ブログ―市史編さん草子「市史で候」最新テーマ:「ここに清瀬病院ありき」第1回「ここにありき」

更新日:2018年03月05日

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企画部市史編さん室のブログ、市史編さん草子(ぞうし)「市史で候(そうろう)」が平成26年5月30日始動!
市史編さんの進捗状況を報告するほか、清瀬市の歴史・文化・自然を随時紹介。
市史編さん室キャラクター「市史爺(ししじい)」も登場。 清瀬市に関する情報・資料(史料)・思い出も大募集しています。
頂いた情報や思い出は、適宜ブログ内でご紹介させていただきます。
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ここに清瀬病院ありき四十六の巻(1):「ここに清瀬病院ありき」第1回「ここにありき」【平成30年2月26日更新】

 
昭和31(1956)年の航空写真があります。
写っているのは、清瀬の南西部に広がる病院街一帯です。

昭和31年の病院街一帯
 いくつもの結核療養所が広がる様子が見えますが、さて、このなかで、最初にできた「清瀬病院」は、どこでしょう?

   ◇ヒント1◇ かなり大きいです。
   ◇ヒント2◇ 線路に近いです。
   ◇ヒント3◇ 「ここに清瀬病院ありき」の石碑は、その敷地の一角にあります。
   ◇ヒント4◇ 同じ年の病院建物配置図をご参考まで。

清瀬病院配置図(s31)

長い廊下でつながった病棟の脇に、炊事場、食堂、宿舎、看護宿舎、機関場、洗濯場、倉庫などが広がっていました。
(配置図では南が上です。念のため)


   ??????????

                         !!!!!!!!!!

清瀬病院ここ

「清瀬病院」の場所、正解はこちら。

さきほどの写真に、おおまかに枠取りしてみましょう。
敷地の北で志木街道と線路に接している、ここです。



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清瀬で最初にできた結核療養所「府立清瀬病院」は、昭和6(1931)年10月20日開院。

志木街道寄りの敷地面積11,000坪、100床でスタートしました。

翌7年には200床、12年に400床、13年に800床、途中の増減を経て25年には930床という大療養所に発展。
写真の昭和31年、その敷地面積は32,804坪。東京ドームが2つ入る広さでした。

東京府立の病院として発足しましたが、昭和18(1943)年には国内の結核行政を総括する日本医療団に統合され、戦後昭和22(1947)年に国の管理下に移ります。
昭和31年の建物配置図のタイトルに「国立療養所清瀬病院」とあるのは、このためです。

国立療養所となったのち、昭和37(1962)年、清瀬病院は東京療養所と統合、国立療養所東京病院となります。
しばらくそれぞれの元の病棟で診療が続けられますが、昭和45(1970)年、病院機能は東京病院敷地に建てられた新館(現在の東京病院建物の一代前の建物)に一本化されました。

清瀬病院があったところには、現在、
中央公園が整備され(この公園内に「ここに清瀬病院ありき」の石碑があります)、
国立看護大学校、日本看護協会図書館ならびに看護研修学校の建物が建ち、
折々に「清瀬みつばちプロジェクト」の蜜源苗木配布が行われる「リハ学あと」つまり東京病院附属リハビリテーション学院*跡地が、災害時の緊急避難場所として残されています。

清瀬の病院街の始まり、清瀬病院という930床の療養所がどういう規模のものだったか、付近を歩いて体感する「市史散策」は、いかがですか。



「清瀬病院跡地」は、清瀬市指定文化財です。
 もとの敷地全体が「旧跡」として文化財指定されています。

写真:
国土地理院提供の写真(資料番号USA-M324-131)
に色付け等加工


建物配置図:
国立療養所清瀬病院『開院二十五周年記念誌』(昭和31年)より
国立病院機構東京病院の許可を得て掲載

参考資料:
国立療養所清瀬病院 開院二十五周年記念誌』(昭和31年)
『国立療養所東京病院 統合15周年記念誌』(昭和53年)
ほか

*「東京病院附属リハビリテーション学院」について詳しくは、
「市史で候」五の巻之四:「日本の『リハビリ』専門教育発祥の地 きよせ」
をご覧ください。
五の巻之五「『安眠ゾーン』が見てきたもの」に続いて現れます。





四十五の巻:「いざ、中世を訪ねる時空の旅へ」市史講演会第2回開催 【平成30年1月15日更新】

市史講演会第2回「中世の清瀬市域」~ この講演会は、2月4日好評のうち終了しました ~


市史講演会、今年も開催します。
今回のテーマは「中世の清瀬市域 ゆかりの人物と文書を追って」。

きよせし?いき?
きよせ しいき?
きよせ、じゃなくて?

「清瀬」という地名が生まれたのは、明治22年に、清戸下宿、下清戸、中清戸、上清戸、中里、野塩の6つの村がまとまって「清瀬村」が誕生したときのこと。

それよりはるか昔の中世には「清瀬」とは言わなかった。
知りたいのは、今の「清瀬」にあたるところが、その時代どうだったか、なんだけど…。
というわけで「清瀬市域」と表現しています。

つまり、「この辺りの中世って、どんな感じだったのだろう」 これが今年の市史講演会のテーマです。


~・~・~・~・~


ところで、「中世」って、日本史ではどの辺りの時代を指すの?

大まかに言うと、武士が台頭してきてから、戦国の世がおさまるまで。
数字の目安で言うと、12世紀の末から16世紀の終わりまで。

え? 今から400年以上も前?!

ええ。今年平成30年は、明治維新から数えて150年。
明治の前が江戸時代。家康が江戸に幕府を開いてから、江戸城が明治政府軍に明け渡されるまで265年間。
「中世」は、そのまた前を指すのですから。

そのころ、この土地はどんな様子だったのでしょう。
ゆかりの人物や文書から、その姿に迫ります。

数百年前の文書でも、残っていれば読み解くことができますが、今の清瀬市にあたる地域に関する中世の古文書は、実は多くはありません。

そこで、市域の中世を知るには、ゆかりの人物の動きを追い、全国に散在する関連文書を追う必要がある、というわけなのです。

再来年度、新たな清瀬市史の1冊目として資料編を出す古代・中世部会では、こうした調査を着々と進めています。
今回の講演会では、その成果から見えてきた中世の清瀬市域の姿が語られます。

早春の日曜日、
古文書写真が巻頭を飾る『市史研究 きよせ』第2号を手に、清瀬市域の中世を訪ねる時空の旅へ、みなさま、いざ、まいりましょうぞ。

                      ~・~・~・~・~

 
          市史講演会第2回 ~『市史研究 きよせ』を読む~
          「中世の清瀬市域  ゆかりの人物と文書を追って」

          講師 浅倉直美(清瀬市史編さん委員会 古代・中世部会長)
          日時 平成30年2月4日(日曜日)午前10時~正午
          場所 清瀬市生涯学習センター 講座室1
             (清瀬市元町1-2-11 アミュービル6階)
          定員 50名(先着順 事前申し込み不要)
          参照資料 『市史研究 きよせ』第2号*

             *『市史研究 きよせ』は、清瀬市役所1階受付、郷土博物館にて販売中。
              1冊300円。講演会当日、会場でも販売します。





 

このページに関する問い合わせ先

市史編さん室市史係
郵便番号:204-8511
住所:東京都清瀬市中里5-842 健康センター2階
電話番号(直通):042-497-1813
電話番号(代表):042-492-5111
ファクス番号:042-492-2415

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